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惜春

古今和歌集 惜春の歌

4月から5月にさしかかり、梅や桜の花も散り過ぎて、春が名残惜しく感じられるようになりました。そんな季節に、惜春の和歌はいかがでしょうか。


古今和歌集 春歌下134歌
──また亭子院の歌合の春の果ての歌──
けふのみと 春をおもはぬ 時だにも 立つことやすき 花のかげかは
凡河内 躬恒(おおしこうち の みつね)

古今和歌集とは日本文学史上最初に編まれた勅撰和歌集で、今から約1100年前の延喜13年(913年)に成立したとされています(延喜5年という説もあり)。古いものから新しいものまで高い評価を受けた1111首の歌を、春から冬、恋や離などに分類されています。古今和歌集の記録によると、この歌は「亭子院の歌合の春の果ての歌」とされており、もともと亭子院歌合で詠まれたものでした。
亭子院とは、平安時代前期に在位した宇多天皇の、譲位後の後院のこと。そこで、延喜13年3月13日に宇多法皇が自分の御所としていた亭子院において開かれたのが、亭子院歌合です。歌合に集められた歌人は名だたるメンバーでした。その中に、この歌の作者である躬恒もいたのです。和歌で有名な紀貫之とも並び称された人物なのです。なお、古今和歌集「春の歌」に関しては、最初は春を祝う歌から始まり最後は惜春の歌になる(そして次は夏の歌……)と言った具合に、「春の歌」の最後にいくにつれだんだんと惜春の思いが色濃くなっているとされています。『春の果て』のタイトルにあるようにこちらの歌が「春の歌」最後に歌われ評価を得ました。
さて、歌の意味ですがそのまま訳すと
[現代語訳]花は今日限りだと思って特別に惜しまない日でさえも、たやすく立ち去れる花のかげでない。まして春の最後の日にたやすく立ち去れるものですか。立ち去れるものではない。
平安時代では、遣唐使が廃止されて以来、花といえば「桜」を指すようになったとされています。そして日本後紀の記述では、旧暦813年2月12日に嵯峨天皇が「花宴の節」を行ったとされています。それ以来代々の天皇は桜の花見を行うようになり、「花見といえば桜」「春の象徴」という認識が定着しました。この和歌で歌われた躬恒が見た花というのも、おそらく桜…八重桜かと。「数日前まで満開の八重桜が、散り急ぎ……いつかは消えてしまう……。せめてまだかすかに残っている花のかげに身を置き時の許す限り春を感じていたい」躬恒はそんな心情に駆られたのでしょうか。古今和歌集中の和歌を見てみると、躬恒は梅や藤の花や夏花、紅葉、雪といった自然のものを詠みあげているものが多いようです。また、夏、秋上、秋下、冬の中でも、躬恒の春下の歌が春下全体66首中7首で10.6%と、割合として最多となっています。躬恒は四季の中でも春、そして春に咲く花や自然のものに対して優しく対話できるほど心動かされるものが多くあったのではないでしょうか。
和歌の最後にある「かは」は、反語「……(だろう)か(いやそんなことはない)」になっていて言いたいことをストレートに伝えるのではなく表現をより強調する効果があります。
[意訳]春の終わりでなくても、花のもとからは立ち去りがたいものだ。しかし春の終わりの今日という日にはその思いがより一層強くなる。
もしかして花とは何かわけがあって別離を惜しむ女性のことを指しているともとれます・・過ぎ去る春をただ惜しむだけでなく花を慈しみ、季節の移ろいやまた大切なヒトに思いを馳せる時間を大切にしたいものです。


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